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北光社移民団と屯田兵で始まった北見の歴史

明治30(1897)年、土佐(高知)で組織された北光社移民団が28日にも及ぶ長い航海で網走に上陸し、さらに、3日間の日数を重ねて着いたのが野付牛(現北見市)と呼ばれるこの土地でした。また、北光社とほぼ同時期に入植したのが北の防備と開拓を目的にした屯田兵でした。
この両者の強じんな開拓魂が、想像を絶する困難にも負けず北の大地を切り開き、ここに北見の歴史が始まったのです。
野付牛の名前の由来はは『ヌプンケシ』と言うアイヌ語で、「野の一方の端」を意味しています。全国各地で縄文時代について、これまでの私たちの「常識」を覆すような新発見が続き、アイヌについても縄文人とのつながりが云々されています。この北見地域が、本州から和人が来る前には「アイヌの天地」であったのも事実です。

「北見」の名前の由来(記事:北見市企画部、市史編さんニュースより)

明治政府は明治2(1869)年8月、太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」をもって蝦夷地を北海道と改称し、これを十一カ国に分割、さらに国を分割して郡を設けることとしました。 幕末の探検家、松浦武四郎は、この原案となる『国名之儀に付申上候書付』を明治政府に提出しましたが、蝦夷地については「日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北海、千島道」を改称案とし、このうち「北加伊道」が採用され、「加伊」を「海」にかえて命名されました。彼が「北加伊道」を提案にしたのは「アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、アイノーと呼びあってきたから」(花崎皋平著『静かな大地』より)だそうです。 また、宗谷、斜里、利尻、礼文、枝幸、紋別、常呂、網走の八郡をもって「北見国」とするとしましたが、その「北見」の由来は「この地一帯を従来から北海岸と唱えてきたので、北の一字をとること、さらに快晴の日には樺太島が見えるので、北見と命名してはどうか」(下線は引用者)とのことでありました。こうして「北見国」は広い地域の区画として命名されましたが、全体を統括する地方行政機構としては運用されませんでした。 そのかわり、明治14(1881)年、開拓使網走外三郡役所の所在地として、現在の網走市の中心街あたりを「北見町」と名付けました。その後、明治35年二級町村制の施行で、北見町外八カ村は網走町、能取村、藻琴村に統合され、北見町は字名として網走町の中に取り込まれ、大正15(1926)年大字の廃止で網走から「北見」という地名はなくなりました。 野付牛町が北見市に改称した時、網走の住民から強い異論があったそうですが、もし廃止されずに網走に北見という字名があったら、改称は不可能だったかも知れません。

野付牛町から北見市へ

昭和17(1942)年に「何故、野付牛町が北見市に改称されたか」は議会に提案理由が残っていればはっきりするのですが、当時の野付牛町民が急速に発展する町勢を背景に網走支庁管内の拠点都市「北見国の中心市=北見市」となる考えがあったのと、「“野付牛”はアイヌ名で“野の端”といわれ、ヌツケウシ、ヌプケウシ、ヌプウンゲシ、ノツケウシなどと書かれ、明治8年に野付牛の漢字をあてたものだが、“ノツケウシ”では対外的にも感心しないので、改正の意見は早くから出ていた。それが市になると“ノツケウシシ”で、さらにゴロが悪くなるので、一部の反対はあったが、ついに改称を決定した」と書いてあるのも事実でしょう。

初代村長 前田駒次

北光社は、あの坂本龍馬の甥である坂本直寛によって組織化された移民団であり、もう一人のリーダー的存在であった前田駒次は、この地に水稲の耕作をした農業の父といわれ野付牛北光社農場管理者でもあった。網走線・湧別線(鉄道)の野付牛経由を成功させた1916(大正5)年に野付牛町長となり、いっそう地方開発に力を注いだが、やがて鉄道建設実現のために野付牛北光社農場を借金の抵当にした前田は北光社農場の経営権を人手に渡す羽目に陥いり、その晩年を借家住まいの清貧のうちに送った。 自由民権運動から出た政治家で、家産を政治につぎこみ、北見の開発発展に寄与した前田駒次であったが井戸と塀だけをのこした「井戸塀さん」の中に、前田も加わったのである。

屯田兵人形と信善光寺

坂本直寛らを主てい主宰者とする北光社移民団とともに北見開拓の礎となったのが、明治30年・31年の両年にわたり開拓入植した屯田兵です。約600戸の大所帯が入植、苛酷な環境の中で野付牛(現・北見市)開拓の礎となりました。この屯田兵の偉業を永遠にたたえようと、大正12(1923)年、当時の信善光寺の住職だった吉田信静尼が屯田兵入植者から希望を募り、故郷に近い名古屋の人形師に日露戦争当時の写真をもとに制作をしてもらったのが75体(内5体は、北網圏文化センターに展示)の屯田兵人形です。胴はサワラ、首が桐、軍装姿の高さ68a前後の屯田兵人形は、開拓当時の風俗がうかがえる貴重な資料として北見市の文化財の指定を受けています。